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【お客様インタビュー】脱なんでも屋を図る町工場が新事業に挑むまで(株式会社寿技研 1/7)

【お客様インタビュー】脱なんでも屋を図る町工場が新事業に挑むまで(株式会社寿技研 1/7)

本連載は、事業のトランスフォームに焦点をあて、苦境から脱却し業績が伸びた、埼玉県にある株式会社寿技研の代表取締役・高山成一郎さんから、成功に至るまでのストーリーを教えていただいた時の動画を書き起こしたものです。

全7回に渡るシリーズものとなっていますので、ぜひ中小企業の経営のヒントを得ていただけますと幸いです。

▽動画も視聴いただけます

【出演者】
インタビュイー:
株式会社寿技研
代表取締役社長
高山 成一郎氏

インタビュアー:
株式会社古田土経営
代表取締役社長
飯島 彰仁

入社当初から先代と共に社長業務を担う

飯島 寿技研は現在、何代目になる会社ですか?

高山 僕で2代目ですね。当社は、自動車や建築部品の金属加工を請け負う会社として、1978年に父が創業しました。もともと父は、祖父が戦時中に始めた工場事業を、兄である伯父と継いでおり、そこから独立したというかたちです。

僕は工場で育ったというか、中学・高校生の頃から、親に「小遣いが欲しけりゃ働け」と言われ、欲しいものがあると工場を手伝ってお金をもらっていたんです。ですから、なんとなく「このまま俺は工場で働くんだろうな…」という意識はあったんですよ。高校卒業後は工業大学に進んだのですが、在学中に父が倒れたため退学し、20歳のときに寿技研に入社しました。今から30年以上前のことですね。

飯島 その後、どのタイミングで社長に就任されたんですか?

高山 僕が社長になったのは2005年、当時僕は30代後半でした。きっかけは、当社の社屋が火事で燃えてしまったことです。

飯島 えっ、そうなんですか!?

高山 その火元が父にあったんですよね。それまで父は病気を患いながらも仕事を頑張ってはいたのですが、その火事以来、体力・精神力ともにガクッと落ちてしまい…。そういったこともあって、そろそろ代替わりしようということになりました。けれども僕自身は、大学を辞めて戻ってきたときから、実質は自分が会社を仕切っているくらいのつもりで働いていたんですよ。

これはよく話すエピソードなのですが、入社当初に父から「お前ちょっと銀行に行ってこい」と言われたんです。「これ持って行って渡せばいいから」と言われ、その書類を見ると「借入申込書」と書いてあるんですよ。「いやいやちょっと待って、つかい所を聞かれたりするんじゃないの?」と言ったのですが、父は大丈夫だと言うんですよね。けれども銀行へ行くと、案の定いろいろ聞かれて…。そんな無頓着な父親だったので、僕もよくお金を借りる場に行く機会があったんですよ。

飯島 事実上、社長の仕事をされていたということですか。

高山 そうなんです。多くの社長はおそらく、後継ぎにお金のことを引き継ぐのは、最後の最後と考えているものだと思います。けれども僕の場合はまったく逆で。また父が入院して3か月不在になり、その間、銀行関係の業務を対応することもありました。当時は戸惑うこともありましたが、結果的にはどんな教えよりも今に活きている経験だと思っています。やはり、お金を借りる場に立ち会ったりサインをしたりすることは、自分が経営者であることを自覚することでもありますから。今となっては、入社当初からいろいろな経験をさせてくれた父には感謝しています。

飯島 事業承継という事業承継ではなく、先代がしていることを実践を通して学ばれていったんですね。

リーマンショックを機に強みのなさを痛感

飯島 寿技研の現在の事業内容や、高山さんが社長になられてからの事業の変動などについてお聞かせいただけますか?

高山 金属加工業に関しては、金属加工製品だけではなく、加工したものを組み立てた機械など、さまざまなかたちで提供しています。

ラジコン用のスポンジタイヤも当社の主力製品です。この事業を始めたのは、お客様から「ラジコンタイヤをつくってくれる業者がいなくて困っている」と相談されたことがきっかけです。こういった要望をもとに製品をつくる仕事は、僕が入社する前から父が既に行っていました。要するに当社は、何が専門というよりも「他所でつくれないものも、相談すれば何とかしてくれる会社」という位置付けだったんですよね。

飯島 いわば「なんでも屋」のような…?

高山 まさにそうです。入社から10〜15年目くらいまでは「これを続けていれば、お客様にも喜んでもらえて、利益もどんどん出て会社も成長していくだろう」と思っていました。

けれどもその後リーマンショックの影響で、仕事が軒並み減ってしまうんです。どこも「今は他所の会社の面倒を見る余裕はない」というスタンスで。踏み込んだ提案をして「つくるのが仕事の工場に指図される筋合いはない」と言われることもありました。カチンとはきましたがそれが現実で、そのときに「うちはなんでも屋だが、何も強みがない」と痛感したんです。

悔しさはありましたが、ずっと現状に甘えていたのも確かでした。それまでお客様の困りごとを解決する仕事ばかりをしてきたから、いざ何かを売ろうとしても自社商品はもっていないし、売るための努力もできない…。自分たちにしかつくれない商品や技術といえるものをもたない限り、たとえ景気が回復したとしても、また同じ状況に陥るだろうと思いました。

会社の危機を救うため世にない新事業を探す

飯島 そういった状況ではまず、既存商品を基にラインナップを変える企業が多いと思うのですが、高山さんはどう展開しようと思われたのですか?

高山 当社には、「こういうものがなくて困っている」という声に応えてきた分、今の世の中にはないものをつくる力はあると思っていました。ですからまずは、それが何なのかを探したんです。「今は世にないがあったら良いもの」「何年後かに大きなマーケットになり得る可能性があるもの」で、僕たちが踏み込める分野はないだろうか、と。

既存の金属加工やラジコンタイヤ製品を土台として…という発想はなかったですね。金属や樹脂加工技術において当社よりも優れた会社はごまんとあるので、この技術を活かしても勝ち目があるとは思えなかったですし。それなら逆に、誰もやっていない未知のマーケットや商品はないだろうか、と考え続けました。

そうして、自社製品として育てることを目的に挑んだのが、「医療関連機器の事業」です。

飯島 これは寿技研にとって、知識も経験もない新市場・新商品だったんですよね。中小企業にとってまったく新しい事業を見つけて開拓することは、なかなか難しいことだと思うのですが…。

高山 これには偶然や運もあったと思います。そのときに僕が重視していたのは「誰もしていないかどうか」ということです。ですから医療関連機器にたどり着くまでには、いろいろな候補を挙げてはインターネットで調べたり試作したりしました。未知の分野に挑むわけですから、「やってみてだめならそれでも構わない」という思いで取り組んでいましたね。

飯島 そういったことを頭で思い描いてはみても、実行に移さない人は多いと思います。これを実行できた高山さんの原動力は、何だったのでしょう。

高山 やはり、会社が倒産してしまうという危機感でしょうか。当社は決して儲かっている会社ではなく、リーマンショック時にも、このまま消えてなくなるのでは…と思うくらい業績が落ちました。もしそのときに、ギリギリでも食べていける売上を確保できていたとしたら、新しいことにチャレンジすることはなかったかもしれません。

飯島 怖いという気持ちはありませんでしたか?

高山 失敗することよりも、来年の会社存続を憂いながらお金の勘定をしているほうがもっと怖いわけですよ。それだったら新しいことに挑戦するほうがよほどいいじゃないですか。夢中にもなれますからね。

[第2回に続く]

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